第3回 ヴェローナ イタリア語学学校
ある日イタリア語学校のポスターを道端で発見、早速電話をして翌週から通うことに。
出来たばかりの学校で、40前の美人の校長がわざわざ玄関まで迎えにきてくれ、ほほなどにキスをされて少々のとまどい、初めてのことでどぎまぎ。
1ヶ月コースをとりあえず受講してみることに。コース開始日にまたテストをされ、今回は少しばかりは答案を埋めることができ、口頭試問も名前くらいは聞かれているのがわかり、まったく初めてで何も答えられないドイツ人のカップルを気の毒に思う余裕さえあった。
初級のコースでクラスは10人、スリランカ人のおばさんの他はみな欧米人で私はもちろん最年長。はじまってみると今回は個人レッスンではないので全部イタリア語で授業が進み、主語や動詞など文法用語のイタリア版がわからないし、教えてくれているのか質問されているのかさえも判らず、時間の空白が空けばああ質問だったのだと悟る始末。
最初口頭試問でいっしょだったドイツ人の若いカップルは見る間に力をつけトップクラスに。私といえば楽だったのは最初の2,3日で後はまるで何もわからずただ座っている状態。でもいつかは耳がなれて判るようになるはず、という根拠もない楽観主義でそれでも必要にせまられているため眠くもならず毎日が過ぎていった。
休憩という単語も知らないために、最初は何をきっかけにみんなが外へと散っていくのか不思議だったり、招待されても今日なのか明日なのかもわからず、すっぽかしてしまったり毎日がハプニングの連続。先生も私は特別扱いにしてくれて、超やさしい問題のときだけ私を指名しお客様にならないようにとの配慮ただ感謝。ここまで判らないととプライドも何のその、開き直ってしまえば肩身が狭いどころか、なにか清々しいくらいの感じであった。
ある日急に教室から皆が出て行ってしまい、私はひとり取り残されていつも不思議なことがよく起こるなあと思いながら、次に当てられる問題のため辞書などを引いていた。するとひとりが戻ってきて陽子も早く来るんだ、という。あわててかばんを持とうとすると、いいからそのままで早くという。下に降りてみると皆が空を見上げていて、さては新型の人工衛星でも通るのかと思っていると、うちのひとりがなにやら紙製の眼鏡をあてて見上げておりはっと日蝕かもしれないと気づいた。みると晴れているのに異様な暗さで、妙な風がざわざわと吹き、鳥が鳴きながら群れ飛んでいた。借りた眼鏡で見てみると太陽はほんとに糸のようで皆既日蝕に近い状態。そういえば何かしら判らない単語を言いながらクラスメートが騒いでいたことを思いだし、又もやひとり夢の世界に住んでいることを再認識した一日だった。
授業で困るのはゲームを取り入れたレッスンで、イタリア語を使ってしりとりを組み合わせたすごろくなどをするときに、若いみんなはすぐにルールを理解して遊びはじめるのに、私ときたらいったい何をすべきか判らない。そこで最初の回はパスをして次の順番がまわってくるまでにそれこそ必死のルール解析。でもそんな緊張感がいやではなくむしろ楽しんでいたみたいである。忍耐のかいあってか1ヶ月後にはなんとか判るようになり、とぼとぼながらもついていけるようになった。 とはいっても横文字は何十年も縁がなく、黒板の文字を写すのにも欧米人の3倍はかかり、また写している間は何も聞こえないので、書き終えたときには皆が何をやっているか皆目判らない。その上近視の老眼で眼鏡の度もあまり合っていないので、眼鏡をかけたり外したり、外があかるすぎると目がいたくなったりと年齢によるハンディキャップも結構あった。ただ自分のしわ顔は見えないので、20代の若い子たちと話していると自分も同じ精神年齢になれってしまうのが不思議。クラスメートには独特の連帯感があるために、ふつうの人間関係とは違った、いたわりや親しさのある年齢を超えた交流ができたと思う。
今でも思いだすのは市の中心部にある野外劇場アレーナでマダムバタフライを見たときのこと、その日の午前中に見に行く話をしていたところ、ドイツ人で20歳の金髪長身碧眼の男の子が、僕も行くんだよ。とても感激したから今日は2回目、2幕で暗くなってろうそくが灯るときがとても素敵だから、そのとき僕のことを思ってくれる?僕もそうするからなどといってくれるではありませんか。翌日ふたりで報告しあったことだった。
この語学学校では当時は9人の学生の内訳はドイツ3人、アメリカ2人、メキシコ1人、ヴェネズエラ1人、スリランカ1人達で程よい構成だったと思う。5年経った今では日本人が多くて、この間聞いた所によると上級のクラスでは日本4人中国1人ドイツ1人だったそうで、これで留学の感じがしないと嘆いていた。
そういえばペルージアの大学でも40人のなか中国15人くらい、マレーシア2人、日本3人、韓国4人、アラブ4人、スエーデン8人あとはフランス、アメリカ、ドイツなどで圧倒的にオリエントが多くてイタリアで学んでいるという感じがあまりしなかった。中国人はフィレンツェの近くにプラートという中国人の町がありそこで働く居住権のために来ているとか聞いたが、1ヶ月もたつと4,5人にまで減ってしまった。
授業は朝の8時から夜7時まで、しかし空き時間があるので午前に3時間、その後は5時から2時間など日中は自由時間など面白い時間割であった。授業はどの学校でも当てられるというよりも、解った人が勝手に答えるというシステムなので、引っ込み思案というか能力に欠けるからか、はたまた手を挙げて答えるには覚めすぎているのか日本人はたいてい大人しく目立たない存在である。ドイツ人などは積極的というか解らないことはとことん聞くので、授業が止まることこの上なし、勉強不足によることまでも蒸し返されたりで、周りを気にする日本人とは対照であった。
イタリア語を学んで感じたことは、語学というのはスポーツといっしょ、バドミントンのときなど球がくると、前に出ようと思ってもまず体が最初に後ろに下がってから足が前に出る。頭では判っていても口まで到達するのに時間のかかることかかること。また年齢に比例してその反応が歯がゆいほどに鈍る。錆びついた神経を10秒くらいかかって伝わってくるのが感じられて我ながら苦笑してしまう。若い子の反応は反射神経による速さで、20代よりも10代はもっと速いと20代後半は嘆いていた。何しろ18歳と机を並べていたのだからたまったものではない。
第4回 イタリアの大家さん その1 へ続く・・・
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